こんにちは。
先日の話、夫の週末北陸旅の提案。
夫の目的はこの季節限定のセイコガニ、私はというと行きたい場所もあったので連れて行ってもらうことにしました。
敦賀港、舞鶴港で日本の近代歴史を考える、なんてたいそうなタイトルですが、以前から気になっていた日本の近代歴史の施設へ行ってみたということです。
今回は名古屋からの日帰り旅、敦賀港、舞鶴港でのお話です。
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名古屋から日帰り旅、敦賀港、舞鶴港へ
名古屋から敦賀までは北陸自動車道を走って約2時間、朝8時に家を出て途中で養老SAで小休憩、10時には敦賀港に到着です。
名古屋から敦賀は思いの外近いのですね。
福井は20代の頃に出かけた若狭の海が記憶の全てでしょうか。
人道の道 敦賀ムゼウム到着
敦賀港は、明治から昭和初期にかけてヨーロッパとの交通の拠点としての役割を担い、1920年代にポーランド孤児、1940年代に杉原千畝さんの「命のビザ」を受け取ったユダヤ難民が上陸した日本で唯一の港だそうです。
この敦賀ムゼウムでは、敦賀に降り立ったポーランド孤児やユダヤ人の史実を中心に、敦賀に上陸した当時の様子や状況などの資料が展示されています。
ムゼウムって何だろう?って思ったら、ポーランド語で「資料館」という意味だそうです。
こちらでは1920年代のポーランド孤児、1940年代のユダヤ人難民の資料が展示されています。
ここで展示内容となる「ポーランド孤児」と「ユダヤ難民救済」について簡単に示しておきます。
明治から昭和初期にかけて敦賀港は、シベリア鉄道を経由してヨーロッパ各都市とを結ぶ国際港として発展したそうです。
1920年代にロシア革命の動乱によりシベリアで家族を失ったポーランド孤児救済を、ウラジオストクのポーランド人から要請を受けた日本政府は日本赤十字社に救助活動を指示しました。
それによって1920年から1922年にかけて763人に物孤児が救出されました。
孤児達は日本で手厚い保護を受け、無事本国ポーランドへ帰って行ったそうです。
そのこともあって今でもポーランドの人たちは日本に対して良い印象を持っている人が多いのだそうです。
ユダヤ難民救済については多くの人がご存知である思いますが、第二次世界大戦中にナチスドイツによって多くのユダヤ人が迫害を受けました。
多くのユダヤ人がリトアニアのカウナス日本領事館の杉原千畝領事代理によって発行された日本通過ビザを持ってシベリア鉄道でウラジオストクへ向かい敦賀に上陸し、そこからアメリカなどの第三国へ逃げることができたそうです。
杉原千畝さんの「命のビザ」の話は知っていましたが、ポーランド孤児についてはほとんど知ることがありませんでした。
歴史についてはまだまだ学んでいる最中で、自分の確固たる意見を確立する段階ではありませんが、歴史について色々な解釈はありますがまず事実を知りたいと思います。
このような資料館は実際の状況や様子などを感じることができるので事実を知る上では貴重であると思います。
ムゼウムを出て目の前の敦賀港を歩いてみました。
敦賀港は三方を山に囲まれた港であり、この日は天気も良く海の様子も穏やかでした。
休日だったので遊びに来ている家族連れを見かけたり、夜間にはライトアップもされるようです。
港に着いた外国人たちには敦賀はどう映ったのでしょうね。
ランチはセイコガニを堪能
ランチは夫が予約したセイコガニ丼を食べました。
福井では越前ガニが有名ですが、これはオスのズワイガニのことを「越前ガニ」と呼ぶそうです。
それではメスの越前ガニは?
セイコガニとはメスの越前ガニのことだそうです。
ズワイガニのシーズンでもセイコガニの漁獲シーズンは11月6日~12月末と決まっており、季節限定の味覚なんです。
セイコガニの最大の特徴はミソ(卵巣・内子)と卵(外子)!
丼の真ん中にミソと内子、左側に外子、手前に足のむき身、右側がほぐしみですが、この内子が本当に濃厚で美味しい!
むき身はそれほどの感動があるわけではありませんが、ミソがらみの内子はコリコリと濃厚で超美味。
内子だけ丼にして食べたい!と思えるほど気に入ってしまいました。
11月6日~12月末、この時期に福井へ行かれる方はぜひセイコガニを食べてみてください。
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舞鶴引揚記念館到着
ランチ後に敦賀から約1時間の舞鶴港へ向かいました。
舞鶴港へは舞鶴引揚記念館を訪れる目的で向かいました。
第二次世界大戦終戦にともない、海外に残された多くの日本人が帰国しました。
舞鶴港は政府が指定した引揚港の一つで、13年間にわたって66万人の引き揚げ者を迎えました。
終戦時に大陸に残された日本人およそ60万人がソ連へ送られ、そのうちの47万人がシベリア各地等の強制収容所で抑留生活を強いられたそうです。
中国、朝鮮半島南部、東南アジアなどからの引き揚げが比較的順調に進んだのに比べて、ソ連に抑留された軍人や民間人たちの引き揚げは簡単には進まなかったようです。
舞鶴はまた、日露戦争時にロシアのバルチック艦隊を破って日本を勝利に導いた東郷平八郎が1901年(明治34年)10月1日、舞鶴鎮守府が開庁時に初代司令長官に任命され過ごした場所でもあります。
私は行きそびれましたが、初代司令長官・東郷平八郎をはじめ、旧日本海軍に関するさまざまな資料がおよそ200点余り展示されている海軍記念館は見学可能です。
機会があればぜひ行ってみてください。
舞鶴引揚記念館では、シベリア抑留での生活を知る資料や、引き揚げに関する資料が展示されています。
私が初めてシベリア抑留のことを知ったのは山崎豊子さんの小説からでした。
館内にはシベリア抑留時のラーゲリを再現した展示もあります。
隣接する引き揚げ記念公園にも行ってみました。
こちらから港の方を見てみると、復元された引き揚げ桟橋が見えます。
昭和50年ごろにヒットした「岸壁の母」、それがこの舞鶴港を舞台とした曲であったとは全く知りませんでした。
昭和50年といえば私はまだ小学生低学年でしたから。
「岸壁の母」は戦争から帰ってくるはずの息子を桟橋で待つ母の姿を歌った曲だそうです。
この話にはちゃんとモデルがいて、映画やドラマにもなっているということは初めて知りました。
戦後って遠い昔のことではないですね、つい最近のこと。
この場で起こったことなんですね。
名古屋から日帰り旅、敦賀港、舞鶴港へ感想
日本の近代の礫にを知る場所が北陸にはありました。
北陸だけでなく全国にあるのでしょうが、実際に訪れると現実味が増します。
そんな昔のことではないのですが、遠い昔のような気がしてしまう。
これからも全国の日本の歴史を知ることができる場所に積極的に行ってみたいと思います。
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